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ネタを探して一人旅・・・(`・ω・´)

「【悲報】日本人の宗教観、世界でも稀に見る適当さ」記事を見て、宗教・神について色々語ってみる。①

【悲報】日本人の宗教観、世界でも稀に見る適当さ:哲学ニュースnwk

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一年に一度くらい取り上げられる「日本人の宗教観・神観の低さ、テキトーさ」この点なのですが、

先ず前提として、日本人リベラル、または左翼の方々は時折「宗教を信じている外国のry」「宗教に寛容な社会・環境を」と

「日本人が『宗教、神』その一点をどう捉えているかどうか」ではなくあくまでも第二者第三者(宗教者・環境)の懸念のみで、けっこう焦点を逸らしちゃって易しめの日本人叩き(嘆かわしい)に始終しているケースが多いということ。「私は(信仰というものに対し)こう思う」「日本人はそれに対しては大体そのように捉えている傾向が」という主張では全くないのですね。そういった方々は今後も無視し続けてしまっても良いでしょう。

さあて、この内容は無茶苦茶語れます。誰とでも、何時間でも語れちゃう。

なので私が一人語りするだけでも、長文化必至の流れになると思われるので、ここは①として短めに切り、次回の②に繋げていこうかなとー。

 

『絶対に神を信じているというわけでもないが、信じないというわけでもない。』

この曖昧なポジション・立ち位置は要するにこういうこと。

「証拠を見せてみてくれ。そうすれば信ずるに値するかどうかを判断出来る。」

自分は、

↑のグラフを見て外国人の信仰観と比較して、日本人に一番似合う言葉、「日本人が立場上堂々と誰にでも述べていい・使っていい」言葉がこれだ、と何となく確信したね。

まーーかくいう自分が昔も今も基本、この考え方で合理主義的なワケなのですが、つまりは存在の証拠・(信仰することによる)変化と仮定の証明を現象として捉え、例え部分的であったとしても「価値」を確認認識するに至ることが出来れば、

日本人100人の無信仰が突如として100人の信仰者に変わり得ることもある、と。

神社仏閣に行き墓参りにも行く日本人、しかしあくまでも「適材適所」であり、確実(なもの)ではない。社会・コミュニティの中で何となく自然信仰・信仰とは言えない何かしら正しい秩序の中で生きているという実感だけで十分だ。

「証拠を見せてみてくれ。そうすれば信ずるに値するかどうかを判断出来る。」

今日のオチの部分はこの言葉。↑を少しだけ覚えておいて下さい。

次の②ではこの言葉を少し掘り下げていくつもりであります。お楽しみに~??