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公布後供養、六万円の手ごたえは・・・??

こんにちわ顕正会員です。

 

公布後供養の効力、について現状報告 - アニメでも政治でもネタなら何でも食べます。blog (hatenablog.com)

↑前回の続きです。

公布後供養六万円、その意志を固めた去年の今頃と、現在の俺とでは、全く意識とか変わっていないのですがー、

先ず結論から申し上げますと、この半年間、↑の記事であげた事以外は、『何も良い事(これと言って驚きや想定外の功徳・イベント)は起こってはいない。』ここは2022年12月の俺の予想通り、いや予想以下だったと。

ええと、前回前々回の記事を読み直したのですが、もう十分~過ぎる程この公布後供養に対する自分の姿勢、というものは書かれていたので省略するとして、

では結論部分だけを。

・公布後供養は10000円であろうと60000円であろうと現在の職場で得られる給料、ボーナス等(または仕事や知人関係での物の譲渡なども)それら状況に比例・関係したものしか得られない。

・おそらく人によっては10000円と60000円の差が表れないケースがある(故に『そんなはずはない』としつつも心の何処かでは無意識下で『しかし私程度では(バックされない可能性も)』と6万円を選択する顕正会員が少ない場合も)

・例え10000円の時、0円の時と同じで1年間(公布後供養に参加したにも関わらず)、何も返ってこなかった1年であっても、『何も事故やら不幸に見舞われなかったのだから、むしろそれは日蓮大聖人様に守って頂いたから、(20,000円-60000円の財の功徳が)返ってきたと思う事にするのだ』という思考で良かったことにする、が基本的思考。

 

そういうわけで、何も知らない子供に説明する場合、なんとも浮いた、非科学的解釈を文章にして伝えるしかない、という結果だ。

これでは「1/1初詣のお賽銭は逆に不幸になるよ」「お寺の初詣に参加して幸せになりたい、今年1年良い事がありますように、というご利益を望む合理的な思考数割よりも、顕正会員になって毎年公布後供養に参加してご利益をを望む(合理的思考数割)の方が絶対良い。」とする説得力に欠ける(効果出る出ないが『人による』『0円不参加or10000円参加or60000円参加の差異も不明確で要はランダム』『他宗教の功徳無/有との比較も避けられがち』)。例えば広宣流布した後多くの外国人に英語で、この公布後供養を説明し、更に実感について述べる場合はね。元旦の初詣でのお賽銭は非合理、そして不幸になる。だがこちら顕正会の公布後供養は確実に合理的に幸福になる。だが「良かったことにする」これでは前者と変わりない。また、「合理的じゃだめだよ。見返りを望むような信心じゃ」とする場合、そちらも非合理ということで、他宗教の非合理信仰観念と一緒くたにされてしまう可能性もある。やはり、突出して「100%こうなった」「得られないと思ったら得られた」という絶対確信、のようなものが欲しいところだな。

60000円を投じる意思を決めた時、お二人の顕正会員の方は私に対して凄く感心していて、『思い切って6万円出せるんだから、それだけ幸せになりたいという思い、また日蓮大聖人様に対して信頼があるということだね』と言ってくれたが、その通り。賭け以上の感情、確信はあった。それと同時に、↑に書いたように10000円投じた2022年と、投じていない2021年と、その1年に何があったかを大体大雑把でもいいので記憶しておき、六万円投じた2023年という1年を上から俯瞰してみてそれら2年と比較し、どう『良し』と自分の中で納めるか、それも既に2022年12月の頃から思惑の中にあった。

 

さて、読む人が読んだら『なんだ。10000円も0円も60000円も、変わりねーじゃん。しかもあれだろ。何も無かったバックしなかった顕正会員も「返ってきたと思っとけばいい」って思考。そりゃ返ってきた人の声が必然的に大きくなり、返ってこなかった顕正会員の声は小さくなるわなー』という思考に数%でも陥りがちになるのかも。

しかし確かに、イベントはまーったく、去年12月の時点で予想した通り何も起こらず、むしろ肉体精神を疲弊させるイベント盛りだくさんのこの2023年だったわけで、「それが公布後供養に参加して、60000円まで投じられた方の1年ですか・・・」と言われるほど、ぜんぜん六万円が霞むほどの内容だったけれど、こう考えて見る事も出来る。

「時給2000円以上、仕事は激楽。それで1年以上働けたのはむしろ、公布後供養六万円の結果ではなかろうか」

これ、この1点。ここで顕正会員の10割は「おーそれですよ!」という反応になりそうなものだけど、

うーん。公布後供養2023年に参加し六万円を投じる意思を決めたのは去年12月だ。

その時仕事の方は5か月既に経過していて。確かに周囲の従業員、同僚から人気者扱いされてはいなかったが、それはそれで静かで良かったという見方も。

つまり公布後供養60000円参加→2023年3月~(だったけ?)5月に全同僚や上司に不思議と好かれる→退職する→2022年前半、2021年と全く変わらない日常に戻る。

↑これでは六万円がバックしたという実感・現象としてはやはりイマイチだ。

つまり稼ぎの方、自給2000円+その仕事を1年続けられたじゃないか、

これで満足納得すべき、という結論しか有り得ない。でなきゃワガママでしょう、と。

というわけで、賛否半々、微妙~という感想でしたwいやホント、人によっては「公布後供養参加させて頂いて、60,000円出された、それでその内容・・・!?」と思われても致し方ない記事だwつまり、「その職場で残り6か月、不幸なイベントもなく高給料で無事に働かせて頂いた、いさせて頂いた」という認識で腑に落ちる事が出来るかできないか、かな。自分の努力で運で、その職場に一年間いられたと考えるのか、日蓮大聖人様(+公布後供養六万円)でそこにいさせてもらったと考えるかは、貴方次第ですよ、こんな感じ??

さて、公布後供養2024年、ですが、無論参加しますw

顕正会からしてみれば、「当然でしょう。」無宗教一般人一部の方からしてみれば「信じられねぇ・・w洗脳されてやがる完全に」という人もいるかな。

今回は~まだギリギリで何万円にするか決めていないのですが、公布後供養参加はこれで最後にしようと思っています。

先ず他の顕正会員と異なり、自分は公布後供養参加していない2021年と、10000円参加の2022年、そして6万円参加の2023年を、1年ごとに区切って比較して、その1年で起こった苦労や楽を大体、テキトーに数値化し、比較してやることが出来る。記憶力は良い方なので。

>時給2000円以上、仕事は激楽。

つまり来年以降の職場での時給、対人関係。または休職中ならその期間の苦楽、等を今年、去年、2年前と比較し、色々データを集める事で実感についてはまた何かと解ってくる見えてくるものがあるかもしれない。

 

公布後供養参加は今回が最後。人によっては財の功徳のみ。何時もの顕正会の先輩は「折伏しない顕正会員が絶大の功徳を得られる唯一の機会」と仰ってましたが、うーん。自分の場合、60,000円分の何か・・・うーん得られたのか??来年2024年の1年についても、「仕事の安定」「前代未聞の大登場に対して、または事故などについて回避出来る状況・現象」という捉え方で、公布後供養については割り切って考えていった方がイイかもしれない。

取り合えず、公布後供養60,000円の功徳、仕事止めてから今までの数か月は、「効果1%も出ていません!」むしろその時すべてを使い切っていたとみるべきか(或いは来年持ち越し??)。仕事とセット、で考えるべきだな。顕正会員は。これも一応去年秋の時点で予想の中にあったことだが、「働いていない人は公布後供養に参加しても全くといっていいほど効果出ませんよ」これか~。当たっちゃうかー。

あぁ、この記事の別タイトルは「現象を証明することは出来るのか出来ないのか。」これです。

それと余談ですが、もしIF設定で自分が700年前、日蓮大聖人様とお供させて頂いてた場合、「先ほど我々が平左衛門等の追撃の手から逃れられたのは、その数10分ほど前に南無妙法蓮華経を唱えたから。ですな。あの数分間が未来の生き死にを分ける事となった。しかし日蓮大聖人様の南無妙法蓮華経の100+数十回と私の同じそれとでは効力には差が有る。そうですな?私では同じ回数唱えたとしても平左衛門の追手から身を守り切れないという結果もあって然りであると(だとすると感情の向け方、姿勢に問題があるのか。或いは感覚の差異か、年数、実績の差か・・・日蓮大聖人様と私とでは何が違う??もっと注意深く、日蓮大聖人様のお傍で観察してみよう。)」こんな感じになってると思いまーすw

 

ではでは~(-人-)『南無妙法蓮華経・・・!!』