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ネタを探して一人旅・・・(`・ω・´)

この三年間、霊を数千体相手にしてきた私が思う「霊責任」と「人の責任」その度合い。

こんにちわ顕正会員です。夏と言えば怪談話!ということで今回露骨に霊の話をさせてもらいましょうか~。ド暇な方はどうぞご覧くださいw

このブログでは色々「霊」について言及してきたのですが、自分が思うに

実際「大雑把」の極致こそが『霊など存在しない』とする世界(認識)で

「神経質」の極致こそが『霊が存在する』とする世界(認識)という事かなとw

大雑把、とは言っても人は何時も大雑把な状態ではない、神経質とは言って何時も神経質な状態ではない。どちらも混ざっている時もある。なので『数割』くらい人は霊を理解しない感覚と理解し得る感覚とを有している、と思う。

さて、自分が「雰囲気って、ぶっちゃけ人が作り出しているんじゃなくて『霊』が作ってんじゃね」と仮定を立て始めたのが2000年代後半から。その時は頭の中での文章化、言語化も最低限でした。一年に一回あるかないかくらいの頃です。

元々霊感は皆無ではなかったのですが無いに等しい状態だった子供の頃の自分は、例えば学校(2000年くらい)でこういう事を言うような男だった。

過去の自分「〇〇が昨日と違って不機嫌だったのは家で昨日何かあったから?」

〇〇(当時の同級生の友人)「なんでそんなこと聞くんだよ。お前に関係ねーだろー」

過去の自分「〇〇が嫌がってるし~。止めろよなー。」

〇〇(当時の同級生の友人)「んなこと言ったってムカつくからしゃーねえだろーこの~(他の同級生の頭を笑いながら押さえつける)」

過去の自分「やれやれー〇〇のせいでアニメの話題出来ねえな今日は。あの昨日までのお前なら・・・」

〇〇(当時の同級生の友人)「何かお前もムカついてきたw」

過去の自分「いや意味のないことするなって。俺はお前を怒らせたりいじられたりそういうイベントに興味ない。それより聞かせてくれ。昨日何があった?」

〇〇(当時の同級生の友人)「なんでお前にそんなこと話さなきゃならねんだよ!w(他の同級生の頭を笑いながら抑え込む)」

過去の自分「いや、お前の雰囲気が昨日と違う。(そのせいでこの場このメンバーでアニメの話出来る確率は0%にまで下がっているんだよな・・・)例えばヒカルの碁とかテニプリとか、シャーマンキングスクライドのアニメを俺もお前も見てんじゃん。ならそれでその楽しみや感動を何故次の日とか、今日という日までに持続出来ねえのかなって。」

〇〇(当時の同級生の友人)「は??」

過去の自分「いやだから、楽しかったじゃん。覚えてるだろアニメの内容。それを今持ってこれないって事は怒る方が昔の楽しみより上ってことじゃん。どういうことだろうなって思って。」

〇〇(当時の同級生の友人)「何言ってんのお前ww」

過去の自分「気になるんだよ。だから俺にだけでいいから聞かせてくれって。昨日家で何があった。」

はいwこれが2000年代初期…くらいですねw実際にあった会話で、他の友達もその中にいたはずなんですが彼らのコメントは忘れたので除外していますw

この会話の後、荒っぽい状態になっていた同級生の友人の兄が、昨日弟を殴ったという話を聞けました。これは今の自分からすれば「過程を根掘り葉掘り聴く」というのはどちらかというと(霊災リスクが増大するので)アウト、そういえば心理カウンセラーもそこのところギリギリのラインを(霊に関して知っているのかいないのか。おそらく後者でしょうw)守っておられるようですが。さてこの昔話で何が言いたいかと言うと、「もしかすると『人の何らかの感情が長続きする・溜まる』という状態が続くと、過去の色んな思い出や感覚が消されてしまう、リセットされて『精神(または性格)が大雑把になってしまう』のではないか」と当時の自分は考えたらしいです。それで雰囲気が固定化される。当時は「人の感情」のみに警戒し、それが強まるような状況・環境・対人関係を避けさえすればいい、という結論に達していたらしく、その判断は正しかったのですが

これは逆に言えば早い段階で「善・悪」とか「霊・人間」いう明確な境界線を自分の中で間接的に作り上げてしまった・・・いや正確には、自然と後天的に構築されていった、という方が正しいでしょう。殆どの人は善悪というものは混ざり合い、霊など基本的に存在せず、起こった事象は全てインスタントに解決される…ということを望んでいるので私と真逆、なんですよね。

そういう事で、私はいつの間にか2000年代後半頃には「人より怖いのは雰囲気だ、霊だ」という仮定を多く建てることになる。無論、その当時の自分も、2010年代後半の自分同様に、「こうに決まっている!!」と100:0で推測を事実とするようなことはせず、ひたすら保留、仮定に留めるという思考。しかし二つのパターンを何時も何時も用意してるはずなのに「結局人だ。人が怒りを抑えれば、悲しみから解放されれば、全ては元に戻るのだ」とはならず、ただひたすら怒りや悲しみの前、中、後に残り続ける、人が生み出したのではなく外から移動してきた『雰囲気(仮定)』だけが気になっていた。

慣れてくると、「この雰囲気だとここにいる人にこのような精神的負荷がかかったり、怒るような性格に結果的には至ったりということ、あるな」「彼は去ったが、ここに残っている彼が残した雰囲気(霊)はまた同じような事象をここにいる人の間で起こさせるんだろう。根本問題は解決していない」と思うようになったり。もちろんその推測はほぼ100%当たりに近かった。自分の場合、霊が人に影響を及ぼし、想定通りその人が態度や感覚、行動を一変させる前の段階でよくその環境から逃げたり外出していたりとしていたんで、霊災や人災被害にあうことはあまりなかったと思う。

 

久々に過去の話をしたのですが、

>この三年間、霊を数千体相手にしてきた私が思う「霊責任」と「人の責任」その度合い。

タイトルの部分を回収しておくと、

先ずほとんどの(霊を認識していない)人は霊を全く怖いとは思っておらず、むしろ「共存良し。どんとこい」と受け入れ上等なようです(笑)。それで受け入れ続けていると、ストレスが溜まっていったり怒りやすくなったり、「・・・。」と沈黙するようになったり、変におしゃべりになったりするのですが、むしろその状態が持続している方が怖い、とw医者に薬貰ったり遊んだり睡眠時間伸ばしたり糖分・野菜・肉摂っても霊(がいる場合)そのままですからね。いじめっ子といじめられっ子の関係という構図で例える場合、どちらかがある日学校の(対象が座る)机近くに、寄らないという(気まぐれの)選択肢を、せめて1/2日は取ればいいのに、何故か見る、近づく、遠くから認識する、ということを高頻度でしたりするので、霊にとっては「両者を知っている」という状態となり、悪感情や若者が長時間堪能すべきではない異世界の雰囲気を意図もたやすく共有し易くなる。これは、思考の共有とは全く違うやつですね。

霊、という次元をあると仮定するのであれば、(こちらから)見えない癖に人に(あちらからは)過干渉し過ぎの卑怯者である霊が「責任100%」で悪いに決まってる。

しかし、「霊と共存して良し」を間接的に認めている人にも、どうやら「対処する」という役割がなんか与えられているらしくw面倒くさいこと極まりないんですが、「責任数十%」存在しているということになるんですね~。

さあ、人が怖いか、霊が怖いか。或いはどちらも怖い、怖くない??

それは貴方次第です・・・w自分は、ただただ(彼ら霊は)どうでもよく、面倒くさいだけの存在ですねwああ、でも、ゲテモノデザインあれは・・・確かに怖いか・・・、いやむしろただのグロ芸術?w

 

ではでは~(-人-)『南無妙法蓮華経・・・!!』