アニメでも政治でもネタなら何でも食べます。blog

ネタを探して一人旅・・・(`・ω・´)

Q.顕正会最大の謎『恋慕渇仰の信心』とは?→A.『共学書の内容とセットで勤行中(または仕事中)に日蓮大聖人を強く意識すること』

こんにちわー今回は、結構深い話かも??

顕正会TOPの浅井先生も、部長クラスの方々も、そして長く顕正会員されてる方も皆が皆、超高確率で会話時(一般人には折伏時以外はあまりない)、顕正会員に対して語る際最後の方に持ってくる可能性が高い、この『恋慕渇仰の信心』。

これを理解し、心で実践出来ているかどうかで、その人の境遇(十界)や未来、環境さえ変わってくるのだとか。

しかし前々からこの『恋慕渇仰の信心(日蓮大聖人を想う心)』、耳に胼胝ができる程聞いていたにも関わらず、二年以上、自分は頭の中で隅に置いていたんですね。遠ざけていた。

理由は、

・700年前以上の人を想う、お会いしたいという気持ちが湧かない。イマイチ感覚がつかみづらい。

・共学書を読んでいても、やはりそこに書かれていることは他の書籍と同じ『ストーリー』『歴史の一部』としか捉えられない。例えば西郷隆盛が日本で最も日本人らしく、教育面思想面において貢献した人だと仮定して、それが定義されてたとしても毎日意識し続けることは難しいと思うのだ。過去の人でしかないという認識。せめて、二年-十年に一度再確認する程度だ。NHKドラマ西郷どんは観てたけどw

・勤行で信心積んでる、器に溜まっていってるから、今は恋慕渇仰の信心とやらを持てなくもいいだろう。功徳は出てる、蓄積出来ている。一日二回×α。その分に比例した良き現象、対人関係上の変化、環境変化が齎されればそれでいいと考える。レベル高い境地にはまだ至れていない。しかしそんな自分も別に(恋慕渇仰の信心に至れぬ自身の状態と現状について)落ち度や欠点を具体的に認識理解出来ているわけでもない少なくとも今の段階では。

・現実主義者なんで、過去の偉人を想い続けるなんて感覚は無い・・・。アニメやゲームの作品は何時でも思い出せるけど、一人のキャラクターをずっと、毎日毎時間思い続けれるかというと、無理(一つの作品をこよなく愛するアニメオタク、アイドルオタクの方々なら(その対象キャラ、人に対しては)可能だろうけど、亡くなった方を意識というと。しかも700年前となるとね。)。それと同じで、確かに日蓮大聖人は現実に存在した人物だが、想うとなるともうそれは非現実キャラクターと同じ扱いになってしまうと。対象化それ自体が難しい。魔障霊は、感情の出し方が雑だったり重かったりで明らかに『これだろ。』と対象化出来るのだが、プラスの方(日蓮大聖人)は・・・気配を感じない。勤行中にね。

・顕彰新聞を読んで勤行を行ったとしても、日蓮大聖人の気配が+1,+0.1と、増加するわけではない。ずっと.もう数年続けてるけど未だ気配0.

・たぶん、会館に行かないと、自分のような現実主義者は正しい感覚、気配を掴みとれないのだろう・・・と思ってる。つまり日蓮大聖人と会うとか、恋慕渇仰の信心を掴む、向けるとか、そういう基準を揃える、合わせるためのチャンネルが、感覚がずれているのだろう

・他の顕正会員の皆さんがハイテンションだったり感動(日蓮大聖人に会える嬉しさや功徳体験)だったりを、理解出来ない。話を聞いてて『良かった良かった』とは思えるけど、自分の事のようには思えない喜べない、まったく。感覚が鈍いのかもしれない??

顕正会員の皆さんが新聞や登壇で『日蓮大聖人様が・・・』と語るところでは、肯定も無ければ批判も無い。そんな感じ。真ん中。つまり何も無い。

 

っと・・・まあこんな理由、こんな思考がこの一年半くらいは、ずっと続いてて、『恋慕渇仰の信心』については保留、とし続けていた。

しかし昨日、まさかこれについての進展が。

何時もの顕正会員の先輩に、自分はこのような質問をダメもとで投げかけてみたのですよ。

「今の仕事辞めちゃうってことで、同僚や上司に送迎会みたいなの開いてもらったんですよ。で参加してきたんですが。まあよくある飲み会のノリでしたね、その数時間は。で帰って勤行やったんですが、魔障霊がたくさんいたらしく(同僚の誰かについていたのでしょうな)、集中できなかった。「ふう」と思って勤行後にいつものように大きいものは全て除霊したのですが、小さいやつは放置してました。そこで思ったのです。『職場と家(での勤行)とで、性格変えるのっておかしくないですか??』他の宗教者でも、信仰やってるときと社会とでは自分を変えますよね。都合よく。いやそゆことしない人もいるでしょうが、変える人も、いるでしょ?一定数は確実に。職場では毎日一般の方に自分の宗教(顕正会)の良さとか語らないし、勧誘もしない。それはルール上仕方ないのですが、内面見ると卑怯なんじゃないかって。何故こういう事言うかっていうと、顕正会って他の邪教と違って唯一、人類始まって今日まで唯一正しい宗教じゃないですか。なら、そんな蛇みたいに二枚舌で、態度コロコロ家と外とで狡猾にまた都合よく、変えちゃっていいんでしょうか??喜怒哀楽の感情を、自分の本質を二つに分けて・・・。正しい宗教であるなら、職場と家とで、顔を性格をいちいち変えずに常時正直で、真面目であるべきだ。勤行中の真面目さを職場で貫き通せてこそ、態度一貫して、正々堂々とした生き様を信心を日々態度で心で証明・キープ出来てこそだと。あ、つまり自分が言いたいのはこういう事ですよね。勤行を二年半、雑念や無心を抑えながら、しかし他の顕正会員の恋慕渇仰の信心を会得してる方には程遠くですが、真面目に続けてきた俺です。しかし何故、その自分が飲み会の席で、勤行を一回も行ってない人たちと、顔を二つ分けながら環境切り分けながら共存していかないといけないのかって話です。どう考えたっておかしいですよ。環境レベルは、勤行を続けた日数、回数に比例して高まっていって、自然と集中出来る環境だったり、真面目な人しかいない職場だったりと、そこに自然に導かれる?みたいな現象が時を経るに連れ起こってくる・・・・起こりやすくなる。そんなことあってもいいんじゃないでしょうかね。しかし、この2020-2023を振り返ってみても、そんなこと未だ起こってはいない。ずっと小学校~高校生時代の対人関係レベルですよ。何処行っても馬鹿しかいない。いや自分の話ばかりなんですが他の人を例に取って説明することもできます。例えば○○さんは、私の数倍、もう10数年、顕正会員続けておられますよね。数字で語ると、1日二回の勤行を、365日です。つまり730回を×年数分です。これは浅井先生仰られてたように、器に信心が溜まっていっている。そうですよね?で私が語りたいのはその数字だ。宗教者は数字を長く語れない法則がある。しかし顕正会は、違う。正しい宗教ですからね。日蓮大聖人は宇宙さえ超えていると。五次元さえ超越された存在であると貴方から二回、聞きました。宇宙は天文学的な数字で構成されている。(略)つまり勤行の回数、日数に比例した環境変化、環境功徳程度、その人の頑張りや姿勢に応じて起きてくる、起こされることが叶って当然の理ではないかと考える。例えば○○さんなら、私と比較して十数年分の勤行回数が、私の二年半(分勤行回数で溜まった功徳)よりは確かに、功徳として現象として環境に表れているので、職場環境も私や一般人よりその分高く(落ち着けるとか一人だとかそもそも労働日数が週4以下とか労働時間7時間以下とか)あって然り、と。いかがでしょうか。」

ちなみに↑の文章は箇条書きで子供みたく噛み砕いてポンポン語ってますが、「(略)」がたくさん含まれるものです。あと一気にマシンガントークで語りきったわけではなく、相手と会話しながら、間を置きつつ語ってます。

>正しい宗教であるなら、職場と家とで、顔を性格をいちいち変えずに常時正直で、真面目であるべきだ。勤行中の真面目さを職場で貫き通せてこそ、態度一貫して、正々堂々とした生き様を信心を日々態度で心で証明・キープ出来てこそだと。

ちなみにこの部分はかなり90年代っぽいですなwもう殆どスポーツマンシップに近い感情で語っている。人によっては暑苦しいというかウザって感じに取られる事もww

で、先輩の答えですが、また例の如く専門用語たっぷりの回答だったんで何語ってたか殆ど忘れてしまったのですが、

「十界というものがありましてね」

「恋慕渇仰の信心を奮い起こしていくしかない」

「共学書を読んで日蓮大聖人を想わなければ」

 

とこういうワードがあった気がします。その間にも自分は専門用語抜きの質問を随時挟んでたんですが、

この会話で分かったことがある。

・「確かに、勤行で功徳は溜まっていくのだけど、十界ばかりは絶対に変えられない。末法では日本人は殆どが地獄界。それを変えたいのなら折伏するか恋慕渇仰の信心で乗り越えていくしかない」

・恋慕渇仰の信心は、共学書とセット。勤行中は雑念も無心もダメで、頭の中で日蓮大聖人にお会いしたい。成長させて頂けるという喜びが無いと。

 

この二点。前者は要するに、環境と一日一日の功徳とは別、として考えないといけない、ということ。

①環境は何処へ行っても変わらない&職場も良くない、お金も溜まらない生活苦しい

②環境は何処へ行っても変わらない&職場での対人関係はその十界に相応するレベルで良くはなっていく。お金は溜まる生活は楽になる

③環境は変わっていき&職場での対人関係も自分にとって都合よく、より楽に、より健康な肉体精神が保証されるものへと変わっていく

こういうことで、①が顕正会員でない人、また福運や生命力が年経る毎に無くなっていく一般人(外国人も無論含まれるし、先進国も後進国も、貧困層も富裕層も、血筋も資金も関係ない)、広宣流布前(2020年代以降)は↑の現象が露骨に表れてくるんだとか②が顕正会員で恋慕渇仰の信心を奮い起こせて無い人、また折伏実践や、信・行・学の3つを生活上取り入れようとせず(しかし勤行は毎日二回続けている)、惰性に流されたり多忙だったりする顕正会員。③が顕正会員として信・行・学の3つを生活上取り入れ、日蓮大聖人を想う境地に至ろうとし、折伏にも熱心で、時間が空いた時にゲームしたり寝たりせず、また仕事中も日蓮大聖人を想う姿勢・習慣を持とうとする者

 

と。↑の回答ははっきり言って遅すぎと言いますか。いや、自分が二年半、②でいい、十分だと割り切っていたってだけで別に先輩の説明不足がどうというわけではないです。あとこの会話で初めて分かったことですが、先輩の睡眠時間は日々6時間だそうです。それで十分元気であると。また隊のトップの方は3時間だそうです。お二人とも仕事を毎日8時間しっかり週5で、しかも休日には駅前に出向いて折伏、と。いやー8時間だろうと13時間だろうと寝ていいとは思うんですが・・・・(それくらい寝ると惰性、むしろ駄目なのだそうです。特に広宣流布前は、寝たりゲームしたりYoutube見たりしない方が良いに決まってる、そういったことは一時間程度で十分、だそうです。趣味に幾ら時間使っても・・・・良くね??自分の人生なんだしー)

 

>・恋慕渇仰の信心は、共学書とセット。勤行中は雑念も無心もダメで、頭の中で日蓮大聖人にお会いしたい。成長させて頂けるという喜びが無いと。

で問題はこの後者。つまり即ち、恋慕渇仰の信心とは何なのか。この話題をする気や予定ははっきり話し始めた時、ゼロでした。しかし先輩との数十分の電話でまさか結論が出てしまう事に。

共学書中盤で、たっぷりと当時生きておられたころの日蓮大聖人のエピソードが書かれていますが、

これは顕正会員が勤行中に、日蓮大聖人を想いながら読む、頭の中で日蓮大聖人をイメージし易くするために併用して使う、素材のようなものなのだという。

自分はこの一年間と二か月くらい、中立(除霊が行えるとして)を気取っていましたが、しかしつまり顕正会員というのははっきり明確に、二つに分ける事が出来て、それは勤行中に日蓮大聖人を意識しながら行えるか否かということ。この一つ前の記事を例に出すと、あの新聞の中で、専門用語殆ど抜きに分かり易すぎる現象功徳を語っておられた一度顕正会辞めて戻ってきた方はまだ初歩的な段階、で、専門用語たっぷりに語られている方は「通常の顕正会員」「功徳を実感出来ている立派な顕正会員」ということ・・・!!

雑念なく、無心もなく、勤行を読み上げている時に日蓮大聖人を(共学書の色んなエピソードを頭に浮かべながら)想像する、または心で、感情で気持ちで会いたいとか、そういう想いを起こしながら読むと!!

これは癖が強い・・・・。しかも、この勤行中だけでもダメで、仕事中もまあ毎秒でなくてもいいらしいですが度々、意識して頭の中で日蓮大聖人を想う・・・という作業を習慣づけていかないと、世間の勢い、ノリに流されてしまうということらしいです。

さて、ここまで十分語ったんでもう、恋慕渇仰の信心については今後語る事は、かなり後になりそうですね。

まあしかし、もしかすると数週間後とか数か月後とか?この記事とは被らない内容の恋慕渇仰の信心についての記事をまた、書くことになるかもしれません。低確率だと思いますが。何故なら今日から、勤行中は日蓮大聖人を意識する、4-5周は読んだ共学書の日蓮大聖人エピソードを頭の中で映像として起こしながら・・・というのを習慣化させてみる、ってやつをやっていこうかなとー。しかし職場で日蓮大聖人を想像しながら仕事を、同僚と会話を・・・?うんんんん・・・・・ンンーーーーーー。

ま、結論出してみるしかないでしょう。実験です。

小さな現象でもいい、起こるのか起こらないのか。

それとも何も起こらず、この数か月の繰り返しなのか。どちらかだ。

もちろん感覚善化、職場での対人関係善化、仕事内容善化と何故かは知らないが良い変化は起きてきてる。そこは認めてる。

さて・・・『恋慕渇仰の信心』とは。勤行中、仕事中に当時の日蓮大聖人のエピソードを想像・・・・・ね。

 

ではでは~(-人-)『南無妙法蓮華経・・・!!』