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宗教の良い悪いの見分け方について。「感情のブレ幅」が短くなっても良い場合がある、という人(または頻度)が多ければ悪、少なければ善。

こんにちわ顕正会員です。今回の記事は、他のブログで感想記事を書こうと思ったのですが、結構宗教の記事って何処でも気楽に書けるもんじゃないな~って思ったのでこちらで書くことにw

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この05:43-08:00の佐々木さんの発言についてですが、この後半の部分を聞いて

・結局色んな人がいて色んなものを信じているんだな。それも多様性

・一概に善悪、洗脳非洗脳、非正常正常と宗教や信者それ自体を指して断定してしまうのはおかしい

・宗教に入っている人は皆良い人だった

 

という結論で皆さん納得される場合あると思うのですが、

これまで様々な宗教者と接してきた私からしてみれば、この佐々木さんの(特に後半の)話は『続き』を議論する余地はまだある。

タイトルで結論付いてしまっていますが、

>「感情のブレ幅」が短くなっても良い場合がある、という人(または頻度)が多ければ悪、少なければ善。

この「感情のブレ幅」という所、宗教者を恐れたり尊重している人には是非覚えていてもらいたい所です。現在のイスラエル・ガザ戦争でも日本国内の多宗教にも殆ど当て嵌まる可能性が高い一種の法則、みたいなもので、

例えば日本では喜怒哀楽という言葉がありますが、主に宗教者の犯罪というものはこの喜怒哀楽の内、怒や悲が正当性を帯びて一致し、または個人の中で確信に至り法の定めや被害の想定限度を超えて行動へと移されてしまうというケースが多いのですが、

ここに数字や客観視点というものはなく、ただ

>「感情のブレ幅」が短くなっても良い場合がある、

として一つの感情を肯定し、それを行動に乗せて暴発するリスク、懸念というものがある、と。(これは脳科学者に何時か数字等出して頂きたいものですが)

なので無宗教者は宗教者を慎重に扱わなければならないし、宗教者は無宗教者に対して敏感でなければならないといったケースが多い。

もし仮に、良い宗教というものが存在するのであれば「感情のブレ幅」は広くて然り。無論、短い方が良いという方はあまりおられないでしょうが、ここを当人の前で文章化言語化してみたり、定義化すると(意外と早いタイミングで)対象の特徴や影響力というものが可視化され易くなるのではないかと。

またコメント欄でも皆さん仰られていますが、宗教に限らず『大学に行くのが正しい』『男なら女ならこうあるべき』『アメリカ民主主義に従うべき』このように親や教師、政治家が洗脳する、というケースもありまして、無論それに反対意見を言ったり別の考え方(そこまで真反対ではない意見)を提示してみたりすると、やはり当人、高確率で感情的になってしまうわけですw宗教者でなくても『これが正しいに決まっている』という思想や手段そのものに対し本人が酔い気味となる傾向、というパターンもある、とー。

 

>「感情のブレ幅」が短くなっても良い場合がある、

この「感情のブレ幅」、ですが殆どの人は喜怒哀楽の内、怒哀さえあまり大きく長く、発散されたり、人に迷惑がかかるような行動に宗教や個の正義感を乗せて出さないで頂きたい、と思われてる人が多いかもしれませんが、喜楽、これも無論、先進国・民主主義国家であるならブレ幅は短くない方が良い。つまり宗教者の喜怒哀楽のこれら4つの感情が、意図も容易くどれかからどれかに(スイッチが簡単に入るような感じで)移行するケース。それは若者であっても高齢者であってもです。その懸念が見られる場合、成人していない・・・は極端かもしれませんが、距離を置いた方が良い、と。例え懸念材料が1,2回確認出来ただけでもですね。

ちなみに『「感情のブレ幅」?どういうこっちゃ』と、喜怒哀楽の喜楽の感情について考えた場合に思われた方に誤解されないよう説明しておきますと、

喜怒哀楽の怒哀→宗教や個の正統性を盾(根拠)に直ぐに切れたり、悲しんだりするのは宜しくない

喜怒哀楽の喜楽→宗教や個の正統性を盾(根拠)に喜楽の状態が継続して然りであると断定し切ってしまうのは宜しくない

 

こんな感じです。「感情のブレ幅」が短い状態が人として動物(一例の定義)として正しい悪い、という考え方と長い状態が人として動物として正しい悪い、という考え方と計4種類あって、この前者の方、実はもう少し警戒しておいた方が良い・・・と、佐々木さんのお話を聞いていて思ったわけですな~。

>それは一体何なのか、解き明かされていない

確信・実感する感覚の薄い思想を頭に詰め込んだ故(この記事で言う『感情のブレ幅がいつの間にか短くなった』)なのか、大勢が組織の中で一体化して全共闘のように個が客観視点の欠落した行動を移せるパワーを生み出したのか、それともこのブログでたまに扱っている「霊」という非科学的存在が人(特に宗教者)に何らかの影響を及ぼしている可能性があると見るか・・・。

 

はい、今回は短めに纏められたかな。この記事は令和の「宗教」に関して、興味がある方に対しては刺さるかもしれない種の内容かなとw

ああ、一応言っておきますが

>「感情のブレ幅」が短くなっても良い場合がある

これは感情のブレ幅を短くさせる要因(主体)や人に因る差異、というものを全て除外して語っている内容ですね。元から(後天的であるにせよ本人の責任)そうなっている、という前提条件ありきです。このタイトルについては人によっては些細な事だったり細かい事のように捉えられるかもしれないですが、宗教が行き着く先というのは最終的、超長期的にはそこにテーマとして繋がってくるのかもしれないなぁ~と私は考えています。

ではでは~(-人-)『南無妙法蓮華経・・・!!』