こんにちわ顕正会員です。今回は久々の新聞記事です。
新聞はほぼ毎日、読んでいるのですが今回特に!私が気になった内容のものを抜粋して載せてみました。
たまには顕正新聞載せます。6 - アニメでも政治でもネタなら何でも食べます。blog (hatenablog.com)
一応、↑前回の続きです。
・・・初めて聞きましたね。
この内容はこれまでの顕正新聞の中ではかなり、事情・主観多めで書かれている方、という事、現象について語っている行数、文字数が他の方より圧倒的に多い、という事で一目置いたと。
>日目上人が最後の天奏に赴かれた際の
そこ、その映像、感覚が自分には1%も無いんですよねこの3年間。やはり、感覚はブレているか・・・。
筋ジストロフィーについて、そしてこの方のお子さんについて長く語ってもいいでのですがそれは今回端折るとして、
>宿業がなければこのたびの貴重な体験もなかったのだと、
どうやら「逆境」これが信心や新しい感覚、功徳を得るための一要素となっているらしい。
「苦楽を超えた信心」「一進一退」と、顕正会員・元顕正会員から良く口をついて出るこのワード。自分やその周囲で今起こっている事、その現象の山谷。
自分は幸運不運、山谷という見方より雰囲気とか、サイコロの1-6,で計る方が多いのですがね?
その谷の時、そしてある一定期間が経過した後、この新聞で語られている「乗り越えられた」「救われた」という結果に結びつくのだそう。
自分はこのブログ読んでいる顕正会員からは想定以上に浅く、低く見られている可能性もありますが、実は自分も、この3年間何も「山谷」経験していないわけではない。
その「谷」の時、どうやら感情の強さ、想いの強さに比例した逆境克服のパワーというものが湧いてくるらしい。それは本人が勝手に熱くなった、怒った、感情的になったというだけに留まらず、周囲の全てがその結果を良しとして受け入れる。向こうから解決策、良き環境・状態の提示が表れる、という摩訶不思議現象だ。
しかし気になるのは、勤行の回数、重ねた年数、これらが逆境を乗り越える可能性、または速度に比例の関係となるかどうか.何時もの顕正会員の先輩に聞いてみたのですが、あ去年11月くらい。
すると「回数・年数は関係ないですよ。恋慕渇仰の信心を掴めているかどうか」なのだという(亡き浅井先生は広宣流布前は勤行の回数がその人の功徳の大きさにそのまま繋がってくると仰っていましたがそれは内容・時期・状況が違うということらしい)。
自分は恋慕渇仰の信心に関しては何時も言ってますがゼロ。なのに2年前の4月頃から、除霊を数千件以上、実際に成功させている。
感情トリガーなのか。それともこの新聞の中で語られているように、「これが日蓮大聖人様か、日目上人か、恋慕渇仰の信心というものか!」と掴む感覚、気持ち・・・?のようなチャンネルが絶対必要なのか。
『難しく考える必要は無いよ』と何時もの顕正会員の先輩は言う。けど、会った事の無い人、本の中の重要人物にどう、気持ちやら感情を向け、それを生活の中で固定化、長期記憶の中に留めるということが出来る・・・??分からぬ・・・。
例えば顕正会員の殆どの人は、前回の記事で載せた青山繫晴議員の顔と行動の結果、信念を動画内、彼のチャンネル内(または国会中継)で確認したとしても日蓮大聖人様の方が遥かに上の存在だと確信を持って言いきれる。そこ、それなのですよー。何時かこの謎、解けたらいいのですが。ま、自分が至るしかないって事ですか
ではでは~(-人-)『南無妙法蓮華経・・・!!』